■残業からの自由を求めるマルクス主義

松尾匡『自由のジレンマを解く』PHP新書

松尾匡さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 現代にマルクスを活かして思想的なスタンスをとろうとすれば、どうなるのか。それが結局のところ、本書の立場では、新自由主義新保守主義を批判して、リバタリアニズムリベラリズムにいきつくというのですね。パラドキシカルだと感じましたが、私もマルクスを活かすリバタリアニズムマルクスを活かすリベラリズムというものの思想的可能性を、考えていきたいと思っています。
 ハイエクのいう自由は、強制がないことです。では誰もがいやいやながら、自主的に残業するような社会は自由なのでしょうか。ハイエクであれば、そうした残業は、政府の矯正がないわけだから、自由だ、というでしょう。
 しかし人々の行動パタンには複数の均衡があって、もしかすると人々が自主的に残業することをやめて、もっと自由を感じることができるような社会もまた、社会秩序の均衡点の一つであるかもしれませんね。
 こういう場合に、残業がない社会へと移行させるための政府介入は、自由のための政府介入であって、正当化できるというわけですね。
 すると問題は、そのような別の均衡点の魅力を、どのようにして人々に説くかですね。
 例えば中学校で、一週間に50時間を超えて生徒を学校の活動(課外活動を含む)に拘束するようなケースは、部活動の顧問に対して責任を問うことができるようにして、これを法律で取り締まることができるようにするとか。
 こうした工夫によって、私たちはもっと自由になることができるかもしれませんね。ハイエクであれば、そうした法律はまず自治体ごとに制定可能にして、法の自生的な確立を促すかもしれませんね。自治体ごとの判断に任せるような社会は、ハイエク的な新自由主義と両立しますね。
 自由の問題は、この場合、立法過程の規範的理念に行きつくように思います。