■残業からの自由を求めるマルクス主義
- 作者: 松尾匡
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2016/02/16
- メディア: 新書
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松尾匡さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
現代にマルクスを活かして思想的なスタンスをとろうとすれば、どうなるのか。それが結局のところ、本書の立場では、新自由主義や新保守主義を批判して、リバタリアニズムやリベラリズムにいきつくというのですね。パラドキシカルだと感じましたが、私もマルクスを活かすリバタリアニズム、マルクスを活かすリベラリズムというものの思想的可能性を、考えていきたいと思っています。
ハイエクのいう自由は、強制がないことです。では誰もがいやいやながら、自主的に残業するような社会は自由なのでしょうか。ハイエクであれば、そうした残業は、政府の矯正がないわけだから、自由だ、というでしょう。
しかし人々の行動パタンには複数の均衡があって、もしかすると人々が自主的に残業することをやめて、もっと自由を感じることができるような社会もまた、社会秩序の均衡点の一つであるかもしれませんね。
こういう場合に、残業がない社会へと移行させるための政府介入は、自由のための政府介入であって、正当化できるというわけですね。
すると問題は、そのような別の均衡点の魅力を、どのようにして人々に説くかですね。
例えば中学校で、一週間に50時間を超えて生徒を学校の活動(課外活動を含む)に拘束するようなケースは、部活動の顧問に対して責任を問うことができるようにして、これを法律で取り締まることができるようにするとか。
こうした工夫によって、私たちはもっと自由になることができるかもしれませんね。ハイエクであれば、そうした法律はまず自治体ごとに制定可能にして、法の自生的な確立を促すかもしれませんね。自治体ごとの判断に任せるような社会は、ハイエク的な新自由主義と両立しますね。
自由の問題は、この場合、立法過程の規範的理念に行きつくように思います。