■イベント参加と思考の運動

富永京子『社会運動のサブカルチャー化 G8サミット抗議行動の経験分析』せりか書房

 富永京子様、ご恵存賜りありがとうございました。

 処女作の刊行を、心から祝福いたします。
 本当に、うれしく思います。本書は、東京大学大学院の社会学研究室に提出された博士論文がもとになっていますが、その大元は、北海道の恵庭市における市長選であり、また、北海道の洞爺湖サミットでしたね。サミットのころ、ちょうど橋本ゼミの学部生でしたね。
 博論の一部はこれまで、いろいろな論文として発表され、私もその都度読んでコメントしてきましたが、今回、このように著作として刊行されたことは、大いに意義深いです。洞爺湖サミットのころ、私も『帝国の条件』というテーマで研究していたので、いったい、あの頃の「反グローバリズム運動」とは何だったのか、と改めて考えさせられました。
 社会運動の参加者が、たとえば「平等」を求めて闘っている場合、デモに参加する人たちのあいだの平等についてはいろいろと細かく配慮することができるけれども、ではなぜ「平等」が重要であるのかについては、それ以上考えないで、ものごとを進めていく。「社会運動」とは、考えることと考えないことのあいだに一定の線を引いて、それで新たな思考を開始することになる。
 もちろん「思考」という営みも、実際にはその都度、考えることと考えないことのあいだに線を引いているのであり、そうした線引きによって、新たな思考が可能になるのでしょう。ただ「社会運動」の場合は、それが成功するためには、多くの人々をオルグして賛同を得なければならず、そのためには過激な活動家たちを排除して、人々の共感を調達し、合意を取り付けなければなりません。平等といいながら、排除の構造を伴うわけですね。
 理想的には、思考する時間を重視する日常生活と、イベント性の高い(そして日常生活には欠けた様々な魅力をもった)社会運動とのあいだを往復して、どちらも意義深い仕方で、人生を、あるいはまた社会を組み替えていくことができれば、それが望ましいのかもしれません。社会運動も思考も、自分の人生論的な矛盾を社会問題の側に投影して、これを社会の矛盾として向き合うことで、公共的なコミュニケーションへと開かれていくことができる。そのような回路を作っていくことが大切だと思いました。