■悟りとは現世逃避的なものではない


ほんとうの法華経 (ちくま新書)

ほんとうの法華経 (ちくま新書)

橋爪大三郎/植木雅俊『ほんとうの法華経ちくま新書

橋爪大三郎様、ご恵存賜りありがとうございました。

 法華経とは、すべての人を成仏させる経典なのですね。「この現実社会にあって、一人の人間として完成されてあること」、これが法華経のいう「成仏」であり、原始仏教ではそうなのだと。
 そして、「私も仏になれるんだ」という自信と勇気を与えることが、授記ということ。
 菩薩というのは、悟りを得てブッダという理想に至るための前段階であると考えられます。すると菩薩行という実践は、その人がブッダになれば、必要なくなるはずです。ところが、久遠のブッダは、ブッダでありながら、菩薩行を続けている。これはいったい、どういうことなのでしょう。
 法華経の「寿量品(じゅりょうぼん)」(第16)の教えでは、「ブッダというのは、六道の迷いの世界を離れるのではなく、あえてそこに関わり、菩薩としての実践を通じて利他行を貫く」というのですね。つまり「ブッダ」という理想は、日常的な現実世界から別の世界に移ることではなくて、どこまでも私たちの社会の歴史的現実に関わっていくような生き方なのですね。
 菩薩行という実践は、ブッダになっても、それ自体として価値ある営みであり、目的になる。これは現世逃避的な瞑想ではなく、現世内的な実践ですね。