■入れ墨は、オルタナティヴな忠誠を示す


社会システムの生成

社会システムの生成

大澤真幸『社会システムの生成』弘文堂

大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

 私が大学院生の頃に読んだ諸論文がいろいろと収められていて、とくにルーマンの経済システムをめぐる議論は、私は当時、言語研でこの大澤先生の論稿に批判を加える、というような発表をしたことがあり、懐かしく思い返しました。そのときの私の考えは、いつかどこかで書くかもしれませんが、いや書かないかもしれません。
 それよりも以下では、「入れ墨」という身体加工について、考えてみます。
 一般にキリスト教は、割礼を内面化した倫理体系とみなされている、というのですね。キリスト教以前の社会では、身体を加工することで、社会の共同性や倫理を秩序づけるという方法をとっている場合がある。キリスト教は、そのような社会の秩序化の方法を、今度は内面化して、身体を加工しないでも人々を統治できるようにした。そのような倫理的転換をおこなった、というのですね。
 しかしそのキリスト教が世俗化して、近代国家が生まれるとき、キリスト教がもたらした、「身体加工の内面化」という操作も、消えてしまいます。近代国家においては、文字通り、何も刻印されていない裸の人間が現れる。
 そしてそこに現れた身体統治の技法が、フーコーのいう「生権力」であり、とりわけ規律訓練権力であった、ということになります。「割礼」→「キリスト教の倫理」→「規律訓練権力」という具合に、社会秩序の形成パタンが変化してきたと。
 しかし近年、入れ墨をする人が増えています。この入れ墨は、近代社会において統治されることへの「反抗」を表現するものといえますね。また入れ墨は、その身体加工において表現されたシンボルに、「忠誠」を示すものでもあるでしょう。
 なるほど、ピアスやリストカットは、シンボルへの忠誠によって新たな共同例を立ち上げるような表現行為ではありません。それらは、「私はここにいる」という表現的な欲求に基づくものであり、また自己の存在の根拠を示すものとして、私自身に作用しています。しかし入れ墨のような身体加工は、たんなる自己表現や自己確証のレベルを超えて、もっと象徴的な次元での統治と連動している可能性があります。しかし、それが何なのか。社会調査によって解明すべき、社会学の興味深い問いです。