韓国で起きた大統領退陣デモに関するコンファレンス

昨年11月、韓国で盛り上がりを見せた、「朴槿恵(パク・クネ)」大統領に対する退陣要求デモ。
LEDのキャンドルを手にした人々が、さまざまな場所でデモンストレーションを繰り広げた。
「キャンドルライト政治」とも呼ばれるこの運動は、社会理論の観点からどのように意味づけられるのか。
韓国の中民研究所では、3月8日にコンファレンスを開催予定。
上の写真はそのプログラム。
報告はすべて英語で行われ、外部からの参加も可能という。

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シノドス国際社会動向研究所」(四月に立ち上げ予定)でも、
こうした研究と連動して、社会理論と社会運動論の連携から、
新たな政治の可能性を探りたいと思う。

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韓国の中民研究所はこちら。
http://www.joongmin.org/

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シノドス国際社会動向研究所は、現在、
設立のためのクラウドファンディングを継続中。
https://camp-fire.jp/projects/view/21892
いま、一般社団法人化にむけて、組織作りと研究準備をすすめています。

■人工知能が自分の好みを教えてくれる


感情化する社会

感情化する社会

大塚英志『感情化する社会』太田出版

大塚英志様、ご恵存賜りありがとうございました。

 人工知能(AI)の発達は、たしかに目を見張るものがあります。
 例えば人工知能に、たくさんの猫の写真やビデオを見せてみたら、人工知能の側で計算をはじめて、ある認識パタンにもとづいて「猫という存在はこういう感じの生物だ」というイメージを、自分で描いてみることができたわけですね。
 こうした人工知能の成果は、おそらく他の分野にも応用できるでしょうから、例えばAIにたくさん小説を読ませて、さらに批評家の批評パタンも読ませれば、AIは自分で小説を書いて、その小説を別のAIの批評家に評価してもらって、それでAIはさらに上手な小説を書いて、批評家も批評が上手になって、云々といったことが起きるかもしれませんね。
 さらに、小説に対して「AI大賞」のような賞が受賞される時代が、近い将来、来るかもしれません。あるいは、ネットでランクが上位になる小説を分析して、ランクが高くなりそうな小説を正当に評価できるようなAIが現われるかもしれません。
 音楽にも、応用できますね。作曲の「AI大賞」という。
 空想は拡がりますが、「専門家よりもいっそう専門的」「アーティストよりもいっそうアーティスト的」「自分よりももっと自分の好みを知っている(そして見つけられる)」などといったAIが出現するようになった時代には、いったい「自己の自己性」とはなんなのか。その理解がおそらく変化するでしょうね。「自分のことは、AIのほうがよく知っている。では自分とは何者なのか。」これは考えてみるに値します。

■消費税でも格差縮小の効果あり


18歳からの格差論

18歳からの格差論

井手英策『18歳からの格差論』東洋経済新報社

井手英策様、ご恵存賜りありがとうございました。

 政策としては、消費税のみで、富裕層と貧困層のあいだに、大きな分配効果があるというのですね。この説得の仕方だと、累進所得税には反対しているように見えますが、それが真意でしょうか。
 国際社会調査プログラムの調査によれば、「格差の是正は政府の責任である」という質問に賛成した日本人は、54%でした。ところがOECDの平均は69%なのですね。
 日本において、ウソをついて生活保護をもらう人の割合は、0.5%程度。これはあまり多くないですね。でも中間層の人たちは、生活保護の不正受給に対して厳しい視線を向けます。ここら辺の認識ギャップが激しいというのは同感です。

■「和む」ことは「福祉」の理念の一つ


山脇直司Glocal Public Philosophy
Institut International de Philosophie

山脇直司様、ご恵存賜りありがとうございました。

 ドイツでの出版ですね。公共哲学の網羅的な整理になっています。いろいろな日本人も出てきます。
 最後に、グローカル公共哲学が行きついた理念は、「和」であり、また「輪」、人々の苦悩を和らげる柔軟な平和のための連帯、というわけですね。
 「和解」「人間の輪」「平和」「調和」「和らげるmitigate」「慈悲」「和む(なごむ)」という理念の系列があります。
 私は次のように考えます。こうした系列の理念は、緊張した理性の動きとは異なり、人を弛緩させるような作用をもちますが、それはすなわち、理性や攻撃的な心性が弛緩されたところに生まれる社会秩序というものであり、これは公共性というよりもむしろ福祉のテーマです。福祉からみた公共性です。実はこれは、アーレントハーバーマスも語らなかった社会秩序の次元であり、「福祉国家」の「福祉」をこのような観点から理解するとき、権利としての福祉論や、ケイパビリティ論などとも異なる次元が見えてきます。たしかに、「和む」ことが一つのコミュニケーションとして求められる場面は、福祉サービスのなかでもそれほど多くはないのでしょう。しかしこの視点から、諸々の福祉サービスの在り方を再検討してみる価値はあると思います。また「福祉」や「ウェルビイング」の理念を再規定する意義があると思います。

■入れ墨は、オルタナティヴな忠誠を示す


社会システムの生成

社会システムの生成

大澤真幸『社会システムの生成』弘文堂

大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

 私が大学院生の頃に読んだ諸論文がいろいろと収められていて、とくにルーマンの経済システムをめぐる議論は、私は当時、言語研でこの大澤先生の論稿に批判を加える、というような発表をしたことがあり、懐かしく思い返しました。そのときの私の考えは、いつかどこかで書くかもしれませんが、いや書かないかもしれません。
 それよりも以下では、「入れ墨」という身体加工について、考えてみます。
 一般にキリスト教は、割礼を内面化した倫理体系とみなされている、というのですね。キリスト教以前の社会では、身体を加工することで、社会の共同性や倫理を秩序づけるという方法をとっている場合がある。キリスト教は、そのような社会の秩序化の方法を、今度は内面化して、身体を加工しないでも人々を統治できるようにした。そのような倫理的転換をおこなった、というのですね。
 しかしそのキリスト教が世俗化して、近代国家が生まれるとき、キリスト教がもたらした、「身体加工の内面化」という操作も、消えてしまいます。近代国家においては、文字通り、何も刻印されていない裸の人間が現れる。
 そしてそこに現れた身体統治の技法が、フーコーのいう「生権力」であり、とりわけ規律訓練権力であった、ということになります。「割礼」→「キリスト教の倫理」→「規律訓練権力」という具合に、社会秩序の形成パタンが変化してきたと。
 しかし近年、入れ墨をする人が増えています。この入れ墨は、近代社会において統治されることへの「反抗」を表現するものといえますね。また入れ墨は、その身体加工において表現されたシンボルに、「忠誠」を示すものでもあるでしょう。
 なるほど、ピアスやリストカットは、シンボルへの忠誠によって新たな共同例を立ち上げるような表現行為ではありません。それらは、「私はここにいる」という表現的な欲求に基づくものであり、また自己の存在の根拠を示すものとして、私自身に作用しています。しかし入れ墨のような身体加工は、たんなる自己表現や自己確証のレベルを超えて、もっと象徴的な次元での統治と連動している可能性があります。しかし、それが何なのか。社会調査によって解明すべき、社会学の興味深い問いです。

■悟りとは現世逃避的なものではない


ほんとうの法華経 (ちくま新書)

ほんとうの法華経 (ちくま新書)

橋爪大三郎/植木雅俊『ほんとうの法華経ちくま新書

橋爪大三郎様、ご恵存賜りありがとうございました。

 法華経とは、すべての人を成仏させる経典なのですね。「この現実社会にあって、一人の人間として完成されてあること」、これが法華経のいう「成仏」であり、原始仏教ではそうなのだと。
 そして、「私も仏になれるんだ」という自信と勇気を与えることが、授記ということ。
 菩薩というのは、悟りを得てブッダという理想に至るための前段階であると考えられます。すると菩薩行という実践は、その人がブッダになれば、必要なくなるはずです。ところが、久遠のブッダは、ブッダでありながら、菩薩行を続けている。これはいったい、どういうことなのでしょう。
 法華経の「寿量品(じゅりょうぼん)」(第16)の教えでは、「ブッダというのは、六道の迷いの世界を離れるのではなく、あえてそこに関わり、菩薩としての実践を通じて利他行を貫く」というのですね。つまり「ブッダ」という理想は、日常的な現実世界から別の世界に移ることではなくて、どこまでも私たちの社会の歴史的現実に関わっていくような生き方なのですね。
 菩薩行という実践は、ブッダになっても、それ自体として価値ある営みであり、目的になる。これは現世逃避的な瞑想ではなく、現世内的な実践ですね。

■イベント参加と思考の運動

富永京子『社会運動のサブカルチャー化 G8サミット抗議行動の経験分析』せりか書房

 富永京子様、ご恵存賜りありがとうございました。

 処女作の刊行を、心から祝福いたします。
 本当に、うれしく思います。本書は、東京大学大学院の社会学研究室に提出された博士論文がもとになっていますが、その大元は、北海道の恵庭市における市長選であり、また、北海道の洞爺湖サミットでしたね。サミットのころ、ちょうど橋本ゼミの学部生でしたね。
 博論の一部はこれまで、いろいろな論文として発表され、私もその都度読んでコメントしてきましたが、今回、このように著作として刊行されたことは、大いに意義深いです。洞爺湖サミットのころ、私も『帝国の条件』というテーマで研究していたので、いったい、あの頃の「反グローバリズム運動」とは何だったのか、と改めて考えさせられました。
 社会運動の参加者が、たとえば「平等」を求めて闘っている場合、デモに参加する人たちのあいだの平等についてはいろいろと細かく配慮することができるけれども、ではなぜ「平等」が重要であるのかについては、それ以上考えないで、ものごとを進めていく。「社会運動」とは、考えることと考えないことのあいだに一定の線を引いて、それで新たな思考を開始することになる。
 もちろん「思考」という営みも、実際にはその都度、考えることと考えないことのあいだに線を引いているのであり、そうした線引きによって、新たな思考が可能になるのでしょう。ただ「社会運動」の場合は、それが成功するためには、多くの人々をオルグして賛同を得なければならず、そのためには過激な活動家たちを排除して、人々の共感を調達し、合意を取り付けなければなりません。平等といいながら、排除の構造を伴うわけですね。
 理想的には、思考する時間を重視する日常生活と、イベント性の高い(そして日常生活には欠けた様々な魅力をもった)社会運動とのあいだを往復して、どちらも意義深い仕方で、人生を、あるいはまた社会を組み替えていくことができれば、それが望ましいのかもしれません。社会運動も思考も、自分の人生論的な矛盾を社会問題の側に投影して、これを社会の矛盾として向き合うことで、公共的なコミュニケーションへと開かれていくことができる。そのような回路を作っていくことが大切だと思いました。