■自律は「ニーズ」の一つであるという主張について


必要の理論

必要の理論

ドイヨル/ゴフ著『必要の理論』勁草書房

馬嶋裕様、山森亮様、遠藤環様、神島裕子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 本書は、1991年に刊行された本の前半部分を訳出したものです。
 「必要(ニーズ)」とは何かについて、現象学的な観点から論じる立場として、Smith 1980があります。「必要」概念には、人によってさまざまな解釈があり、また特定の社会的文脈で、どのように用いられているかも違います。現象学というのは、それらを整理するような研究ですね。しかし理論家というものは、これまで提出されていない新しい解釈や理念を提起するものです。本書は現象学的アプローチを批判して、一つの理論を提示しています。
 しかし理論といっても、厚生経済学の必要論は、矛盾を抱えていることが指摘されます。
 Penz 1986によれば、欲求充足の原理を用いて個人間の厚生を比較する場合、追加的な規範的判断を持ち込まないと、そもそも測定することができないといいます。しかしある規範的な判断を持ち込む場合、欲求充足の原理は、もはや主観的なものではなく、何らかの客観的なものとみなされ、消費者主権の原則から乖離してしまうでしょう。
 「必要」について、ある種の普遍的で客観的な基準を提起することはできます。まず、絶対的な「必要」の基準については、文化横断的に、普遍的に決めることができるでしょう。ではもっと豊かな基準としての「必要」は、特定の社会的文脈に依存して決まるにすぎないのかといえば、そうではないというのが本書の主張です。
 本書は、人間が「自律」するための基本的な資源を「必要」の本質とみなします。その基準は普遍的なものたりうると主張します。
 なにが「必要」であるのかを民主的に決めるのではなく、反対に、民主主義を運営するための基礎として、一人一人の市民は自律した意見を形成しなければならないという理念に照らして、そのために「必要なもの」が同定されるわけです。「必要」の中身を民主主義政治における多数派の意見にゆだねることは危険ですね。これはTownsend 1972の議論でもあります。(40)むしろ民主主義が機能するための、基本的な条件であって、それは例えば、「投票」の制度と同じくらい欠かせない不可欠なものとされるでしょう。
 第三章は、本書の理論的核心部分です。ここでは、「衝動(drive)」と「目標(goal)」が区別されます。「衝動としての必要」は、何が人間を生物学的に決定づけているか、という理解から「必要」を定義します。しかし人間にとって必要なものは、必ずしも「衝動」によって特徴づけられるわけではありません。例えば「運動すること」や「ダイエットすること」は、そうしようと駆り立てられないけれども、「必要なもの」です。自分には何が「必要」なのか。それは、自分が何をしたいのか、という問いとは区別されて、探究されるべきものとされます。
 本書は、「必要」というものを、個人にとって「客観的に利益になるもの」であるととらえます。そしてその利益は「普遍化可能な諸目標」であるとされます。例えば、食料や住居などです。
 私たちはふだん、何を食べようか、あるいはどんな家に住もうか、という具合に、食料や住居について戦略的思考を働かせます。しかしその背後には、基本的な食料が栄養補給のために必要であるとか、また基本的な住居が身体を守るために必要であるといった、「諸目標」に関する理解が前提となります。ここで重要なのは、「のために」という言語の用法です。
 「・・・必要とする(また、この点については欲求する)ということへの理由は、本質的に公共的なものである。」(51)とされます。
 「AのためにBが必要」という論理で、Aの理由が公共的に是認される場合に、Bが必要物として正当化される、というわけですね。
 しかしよく考えてみると、ここで定義される「必要」は、「欲求」と区別されたもの(「欲求されないもの」)を含んでいませんね。またここで公共的というのは、必ずしも民主的に決められる事柄ではなく、ある種の科学的な調査と理解に基づくものとされていますね。
 ここで「公共的」という言葉が、たんに人々の合意に基づくものであるとされるなら、それは最低限のものになってしまうかもしれません。しかし「公共性」とは、様々なアクターたちがイマジナリーの次元を持ち込むことができるような領域なのでしょう。「必要なもの」というのは、最低限の絶対的基準を超えて、ヒューマニズムにもとづく権利要求となって現れます。それはさまざまな可能性を探り、どんどん肥大化していくものとして想定されることになるでしょう。「必要」とは、他者によって承認されるべきものとして、公共の場で権利要求されるものであり、そのような要求は、個々の特定の文脈を超えて普遍化されます。そのような要求を認める側は、これまでの文脈的判断の再検討を迫られるわけです。
 この後、第四章では、普遍化可能な「必要」というものが、自律のための条件であるとして、理論化されています。いろいろと検討する必要がありますが、もっとも重要な問題は、「自律」が目標であるとして、そこにはパラドックスがあるかもしれない、ということでしょう。
一方には、自律を前提としない必要物があります。食料や住居などです。他方で、自律することが必要であるという場合の自律とは、自分(あるいは自分を含む人々)にとって、何が必要であるのかを自律的に考えられるということですが、この論理は、自律のために自律が必要だ、という循環論法になっているのではないでしょうか。(これでは公共的な理由とは言えませんね。)それとも自律が必要である公共的理由は、より高次の目標を参照するのでしょうか。どうも「理由」となる理念を「自律」という目標に回収できなければ、自律は究極的な妥当性を失うように見えますし、しかし回収すると今度は循環論法になってしまう。
 おそらく自律が必要であると主張する際の公共的理由はいろいろあって、その諸理由はどれも決定的なものではなく、自律概念を取り巻く副次的なセットになっているのかもしれません。しかしそうだとすれば、そのような諸理由を「別様」にまとめることで、「自律」よりもむしろ、例えば「潜在的可能性」こそが「必要」である、という主張を立てることもできます。第四章の理論を組み替える余地は大いにあると思いました。私も考えていきたいと思います。